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わたしはまことのぶどうの木

クリスチャン作家、三浦綾子の文学作品に「塩刈り峠」という作品があります。実話をもとにした作品ですが、主人公の長野青年はクリスチャンでした。この青年は、ある時、路傍伝道でキリストの愛を知り入信します。

彼は鉄道職員でだったのですが、ある日、彼の乗っている列車が塩刈り峠という険しい峠にさしかかった時、最後尾の車両の連結器が外れてしまい、坂をくだり始めます。先は急カーブでこのままでは車両は脱線し、大惨事になります。そんなわずかな一瞬ですが、この青年はとっさに車両の下に飛び込み、自ら下敷きとなって車両を止めます。

おかげで乗客はみな無事でした。しかし、彼は車両の下敷きとなって亡くなりました。・・・(中略)・・・なぜ、こんなことができるのでしょうか。

私にはそれが何か強いられてとか、義務感にかられてやったとか、そういうものではないように思います。そんな程度のものであれば、限界があります。あるいは、もしたとえ正義感からくるものであったとしてもそのような何か犠牲的な脅迫観念のようなものであったのであれば、何かイエス様の愛でない間違った動機になってしまったのではと思います。

そうではなくて、何か神の大きな恵みを受けたがゆえに、それに押し出されるようにして働いたのではないでしょうか。ご聖霊によってイエス様の愛の力が働いたのではないでしょうか。

イエス様のみこころと全く一つにされて、その境地に達して、その時初めて、本当に人間の力を越えた力が働いて、本当にそんなことができたということではないでしょうか。人間は時として計り知れない可能性を持っています。


それは神の愛と力によるものです。イエス様の愛を知り、それによって完全に変えられ、また、イエス様に似た者と変えられたからではないでしょうか。そしてそれ故に、神の大きな力が働いて、通常の人間の力を超えるそのようなことが実際にでき、またそして、その死は決して無駄にならず、救われる者が起こされ、神様がご自身の栄光をそこに現してくださったのではないでしょうか。

(2019年11月3日 主日礼拝メッセージ「わたしはまことのぶどうの木」より)