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なぜ泣いているのですか

イエス様は「平安があなたがたにあるように」(ヨハネ20:19,21)と繰り返してくださいました。人間が平安でいられるのは、確かに生きる目的、その存在価値と使命があるからです。これに生きよとの生きる指針があるからです。生きがいと言ってもいいでしょうか。それがはっきりと自覚できるからです。(中略)

人はまず、自分は何者なのか、何のために生きるのか、これがわからないと力強く生きていくことはできません。アイデンティティーと使命です。ここで、それを失い、生きる指針を失い、迷い子のように、目の前真っ暗だった弟子たちにはっきりと、今一度、イエス様の弟子として生きることを教えてくださいます。

しかし、これはこの世を生きる私たちにも問われていることです。自分はいったい何者なのか。人生の節目節目、新しいステージ、チャレンジに立たされる時、それまでとは違った生活、違った世界の中で、その生き方が問われる時、そこに生きる指針がなければ、私たちは人生の道を迷い、生きる力さえ失ってしまいます。

このコロナウイルスで世界は大混乱しています。この先どうなっていくのか、先の見通せない中、不安が先走り、今日を生きていく力さえ失いかねません。この時の弟子たちもまさにそのような危機にありました。まさに弟子たちはそんな不安と恐れの中、戸を閉じてビクビクと隠れていました。(中略)

 

何者も私たちから主イエス様の臨在を阻むことはできません。隠れる弟子たちの最中にイエス様は復活のお姿を現してくださいました。部屋だけでなく、その心も鍵をかけて閉じこもって怯えていたところに、イエス様の方から近づいて来てくださいました。そして、弟子たちはまさに主を見て、生き返りました。元気を再び得ました。主が生きておられるから、私たちも力強く生きていくことができるのです。永遠のいのちの源であるイエス様が主であるから、ともにいてくださるからです。

もし、主が十字架で死んだままだったとしたら、いかにイエス様の身代わりの死によって、私たちの罪が赦されたとしても、元気に生きることはできなかったでしょう。

主が生きておられるから、今も生きて働くイエス様の神のご聖霊が私たちに与えられて、イエス様ご自身がともにいてくださるから、私たちも生きるのです。このお方がこれが道だ、これに生きよとおっしゃってくださるからです。

みことばをもって、日々、必要な心の糧を与え、養い導いてくださいます。このイエス様が、私たちを信じる者としてくださって、ともにいてくださり、日々生きる使命と力を与えてくださるから生きていけるのです。この主の臨在が今日もあるから、それがいつも示されているから、もうこれでもかというほどの、生きて働くキリストの助けとみわざがあるから、喜びをもって、元気に生きていけるのです。

私たちの信じるイエス・キリストは、弟子たちが考え出した想像上の人物ではありません。今も生きて働く真の神なるお方です。そのみおしえは、個人的な人間の人生訓でも道徳的教訓でもありません。真の神の力ある絶対的真理です。

それゆえ、イエス様を信じて生きていくことを選び取った者の人生は、もうそれはそれは本当に奇跡の毎日です。このイエス様のすばらしさを知れば知るほど、喜びと希望が溢れ出て、絶えることはありません。しかもこの喜びは永遠のもの、真の神の前の永遠の真実です。

この後の弟子たちはまさに生まれ変わったように、力強く福音を、このすばらしいグッドニュースを宣べ伝えて行きます。何者も恐れることなく、何者にも負けることなく、生涯、その道を確かに力強く全うしていきます。復活の主の真実なるがゆえです。


 

(2020年4月19日 主日礼拝メッセージ「なぜ泣いているのですか」より)