クリスチャン作家の三浦綾子さんの作品に「氷点」という小説があります。三浦綾子さんが世に出た最初の作品ですが、主人公の陽子は、心も姿も美しい女性ですが、本人の生き方や考えではどうしようもない「罪」の問題に悩みます。短くあらすじを言うと、彼女は、父親は殺人者でした。
しかし、物心つかず、まだそのことを知る前に、ある夫婦のもとに引き取られ育てられます。その引き取った夫婦は、娘を失い養子を求めて陽子を引き取ったのですが、実は彼らの娘は陽子の実の父親に殺されたということでした。複雑な経緯を経て、これも様々な罪の結果なのですが、そのようになります。陽子本人は、ずっとその育ての親を実の生みの親と思って育ちます。
母親も当初、陽子が自分の娘を殺した者の実の子だと知らずに引き取るのですが、真相を知って、やはり、どうしても陽子のことを愛せません。そんな複雑な中、継母に冷たくされながらも陽子は明るく、素直に、また賢く育ち、生きていきます。どんないじめにあっても、心清く、正しく、また実に賢く、その場を対処し、いじめやいやがらせをものともせず、相手の悪を思わず、みごとに生きていきます。
しかし、ある時、自分の実の父が育ての親の娘を殺した殺人者であることを知ります。育ての母の「陽子には殺人犯の血が流れている」とのことばに、陽子は悩み、自殺を試みます。彼女自身の原罪とも言える生まれ持った罪、また彼女にはどうすることもできない周りの人々の複雑な罪の結果を彼女はすべて背負って自殺の道を選びます。
遺書にはこのようにありました。「私の血の中を流れる罪を、ハッキリと「ゆるす」と言ってくれる権威あるものがほしいのです」と。彼女は言うのです。だれか絶対的な権威のある方に「赦す」と言ってもらいたいと。
人間はだれでも心の中に氷点とも言える限界点を持っています。いかに頑張って、神の前にも人の前にも清く正しくいきようとしても限界があります。それを超える時、その人自体が、人間自体が壊れてしまいます。病気にもなってしまいます。身も心も病んでしまいます。どんなに私たちが、心入れ替えて清く正しく生きようとしても限界があるのです。どんなに私たちが努力しても、たとえ、清いみことばに従い生きようしても、それだけでは結局、心の底に残るものが、口から出て、あるいは行いに出て、その罪はことを悪くします。
自分は正しいと思うことを言っている。でもそのことばがかえって人を傷つける。そのようなことがないでしょうか。その限界点においてその凍りついた心を癒やすことができるのは神の赦しのみです。私たちには、どうしても、絶対的に権威ある御方に赦していただくしか道はないのです。そしてその時はじめて回復があります。立ち上がる力が与えられます。
「あなたの罪は赦された」(マタイの福音書9章2節)
これは何とすばらしい宣言でしょう。絶対的な神による絶対的な赦しの宣言です。この宣言を今、イエス様、メシアなる救い主イエス様を信じて、この赦しの宣言を自らのものとして受け取りましょう。
赦されない罪はない。あなたが今、どんな罪に悩んでいたとしても、それで心も、体も病んでいたとしても、イエス様の十字架によって赦されない罪はありません。どうか、この赦しの宣言を、今、自分のものと受け取って、心からの喜びをもって立ち上がってください。
喜んでこの癒やされた体をもって、喜んで、ただ感謝して、主をほめたたえて、主とともに歩んで生きましょう。週の始め、こうしてまず神の前に出て、自らを省み、罪を示されたならば、悔い改め、赦しを得て、平安と喜びをもって世に遣わされ働いていきたいと願います。
イエス様のくださった真のいのちを、赦された人生をみこころのとおり、きよくされたことを喜んで、晴れ晴れとした心で、存分に精一杯生きていきましょう。それによって、神のわざが現され、神のご栄光が現されますように。
(主日礼拝メッセージ「あなたの罪は赦された」より)